◆信玄の時代にあった戦い


 信玄の時代には,どんな戦いがあったのでしょうか?


◆1 神戸・堺川の戦い

 信濃の諏訪氏と甲斐の武田氏は,平安・鎌倉時代からそれぞれの地で足場をかため,室町時代半ばになると,互いに外に向かって勢力を広げ始めました。
 はじめはもっぱら諏訪軍が武田領内に侵入していましたが,1528(享禄元)年,今の富士見町(長野県)を舞台に,信玄の父信虎(1494−1574)と諏訪頼満(1473?−1539)の決戦がなされました。
 これが「神戸(ごうど)・堺川(さかいがわ)の戦い」と呼ばれる合戦です。(堺川とは今の立場川のこと)この戦いは両軍ともたくさんの死傷者を出しましたが,勝敗は決まりませんでした。

 信虎が甲府から富士見町まで行くのに使った道を,想像してみましょう。

 富士見町の堺に至るまでの道は,おそらく,甲府から若神子に出て,そこから長坂町の渋沢,あるいは大八田(夏秋)の道を通り大井ヶ森へ抜け,大井ヶ森から小淵沢を経て葛窪(今の富士見町)に至る道,『甲斐国志』でいう「中の棒道」と考えられます。

 ◆2 瀬沢の合戦

 瀬沢(せざわ)の合戦は,1542(天文11)年3月,諏訪頼重・小笠原長時・村上義清・木曽義昌の信濃四将の連合軍と武田信玄が,瀬沢(今の富士見町)で戦ったというものです。

 この戦いは,『甲陽軍艦』によると,信玄が初めて勝利した戦いといわれていますが,年代・内容とも疑問視されています。

 ※『甲陽軍艦』とは,江戸時代初期の書。武田信玄・勝頼2代の事績・兵法が書かれている。

◆3 大門峠の合戦

   1542(天文11)年10月,瀬沢の合戦後,武田信玄が信州大門峠(茅野市と小県郡の境)で,村上・小笠原の軍を破ったという合戦です。

 『甲陽軍艦』によるこの説も,きわめて信じがたいといわれています。
 このとき信玄は,甲府を立ってから葛窪(富士見町)に逗留し,湯川(茅野市)を通って大門峠に出ています。葛窪に至るまでは,長坂町の渋沢,または大八田を通って,大井ヶ森の道筋をたどったことが考えられます。

◆4 川中島の合戦

   川中島の合戦は,諏訪盆地平定後,1553(天文22)〜64(永禄7)年の12年間に5回あったとされる説が有力です。有名な「信玄と謙信の一騎打ち」は,1561年の4回目の合戦です。(真偽は不明)

 北信濃を舞台とする「川中島の合戦」で使った道が,標高の高い小荒間を通る「上の棒道」だったと言いたいところですが,さて,本当のところ,軍用道路として実際に使われたのでしょうか?

 こんな記録があります。
 「八月十八日に甲府をたち,二十四日に川中島に着く。」
 しかし,一直線に目的地にいったらしいのはこの4回目の戦いだけで,これも『甲陽軍艦』による史料です。
 
 他のほとんどの対戦が,優柔不断の進攻でした。信玄が「上の棒道」を利用したことは,少なかったといえます。戦略をささえる物資の輸送路として利用されていたのではないか,とはいわれています。


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