4 棒道に残る伝説


◆棒道のおくり犬

 棒道にはその昔,山犬(やまいぬ)が出没し,通行人たちはよく「おく(送)り犬」に付かれたという。
 おくり犬は人が倒れると飛びかかって食うから,もし,つまずいて転んだら, 必ず「どっこいしょ。ひと休みでございますよ。」と声をかけるものだという。
 村の近くに来たら,おくり犬に「ご苦労でごした。」と言えば,いつとなく離れてしまうということである。また,煙草の火を見せれば逃げてしまうそうだ。

 おくり犬の言い伝えは,八ヶ岳山麓のあちらこちらに残っています。


*おくり犬の話<その1>*
 明治の初年ころ,小池忠衛門は中馬追い(馬方)を業として谷戸村(大泉村)と信州上諏訪を往来していた。春は主として食塩(鰍沢から韮崎を経てきたもの),夏から冬にかけては綿・さつまいも・生姜・魚類等を,馬の背をかりて諏訪へ運び,諏訪からは,春は播大豆・味噌豆,秋から冬にかけては松本や伊那でとれた米を甲州へ運んだ。

 この中馬追いは,本業とする者と農業の余暇にする者との差はあるが,ほとんど村内全部のようにこれをやったものだ。いずれにしても,馬2,3頭をもち,小泉村小荒間から立沢を経て上諏訪に至る棒道を,雨の日といわず風の日といわず,通ったものである。

 ある日,忠衛門はいつものように米をつけて,上諏訪からの帰途,立沢まで来ると,秋の日はとっぷり暮れてしまった。

 花戸ヶ原(はなどがはら)にさしかかると,名物の送り犬につかれた。賽の河原も淋しくすぎて,小荒間の人家近くなったから,安心して後ろを見たら,犬はいなかった。
   小荒間の村屋を出たら,また,山犬が近づいてきた。

 谷戸村大芦の入り口,鳩川の橋のたもとで,
「ご苦労よう。」
  と言ったら,犬は姿を隠した。

 この送り犬は人が転ぶとかみつくというので,中馬追いは,夜道になると非常に用心深く歩いたものだ。
 腰には,沓切りという小さな鎌を忘れなかった。これは護身用でもあるが,火打ち石をなくしたときに,これで火をおこすのである。火を見ると,山犬はすぐ逃げたそうだ。


*おくり犬の話<その2>*

 明治2,3年ころ,商用で上諏訪へ行った帰りの瀬戸左一郎は,立沢まで来ると,後から急いで来た井出清助と道連れとなった。二人は道連れのできたのを喜びながら花戸ヶ原にさしかかったとき,左一郎は松の大枝をかついで,清助にもかつぐことをすすめた。
 小深沢まで来ると例のおくり犬が闇から眼を光らせて二人を送った。二人はさっそく沓切り鎌で石を打ち,火をおこして,先に用意してきた松の大枝を燃やし始めた。するとおくり犬はどこかへ姿を隠してしまったということである


*おくり犬の話<その3>*

 中馬追いの中島幸左衛門が,やはり花戸ヶ原の中程まで来ると,1匹のおくり犬が,道の真ん中まで,のそのそと出て来て,懇願するように幾度か頭を下げる風情をして大きく口を開いた。

 度胸のよい幸左衛門が犬の口の中をのぞいてみると,小さな骨が口の奥にささっていたので,手を入れてそれを取ってやった。するとその犬は非常に喜んで,尾を振り,頭を下げて,森深く立ち去った。

 幾日かの後に幸左衛門が花戸ヶ原にさしかかると,前に助けてやった犬が出てきて,彼の袂(たもと)の端をくわえて引っぱるので,犬のなすままに道の小脇のヤブのかげまで行った。
 しばらくすると,闇の中がざわざわとすばらしい物音が聞こえた。気味悪く思って耳をそばだて,ヤブのかげから透かして見ると,それは,オオカミの大群が過ぎて行くのであった。この大群に出会ったら,それこそ命は危ない。
 幸左衛門は,
「畜生でも,恩は覚えていたか。」
と,ひとり言を言った。

 オオカミの大群が行き過ぎると,その犬はくわえていた袂の端を離した。
 


◆女取川(めとりがわ)

 町境を流れる「女取川」は,雨が降るとよく洪水になりました。ところが,3日もすればまたカラカラになってしまいます。そんなとき,女の人が一人で川の端にくると神隠(かみかくし)にあって帰れなくなってしまったということです。 
 そんな言い伝えから「女取川」の名がついたといいます。
 

◆棒道のワラビ

 棒道づたいに広がる草原には,ワラビがよく伸びています。実はこのワラビは他の場所のものほどアクがないそうです。
 今のように食べ物が豊富ではなかった戦国時代,ワラビは貴重な食料だったに違いありません。また,戦(いくさ)の最中に手間のかかる調理はできなかったはずです。
 でも,食べ物の味にうるさい信玄主従のことです。出来るなら美味しいワラビが食べたかったのでしょう。
 そこで,信玄はワラビをひとにらみすると,にらまれたワラビはこわくてアクのないワラビになったそうです。

 信玄は超能力者だった?と思わせるような伝説も残っています。


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