山梨の「研磨宝飾産業の歴史と発展」について




山梨の研磨宝飾産業は、甲府北部の御岳昇仙峡の奥、金峰山一帯から水晶が発見されたことに始まります。原石の発見から数千年の歳月が流れ、自然と人間の感性から生まれた研磨工芸は、およそ700年という長い歴史を刻みつづけてきました。
 各地にある古墳時代の古墳副装品の中からは数々の装身具が見つかっていますが、特に曽根の「銚子塚遺跡」で見つかった「水晶の勾玉」は水晶が道具ではなく装身具として用いられるようになったことをあらわす貴重な出土品です。
 全国的に見て、水晶の産出は珍しいことではありませんが、「研磨・加工に適した大きく美しい水晶が大量に産出したのは山梨だった」ことがこの独自の産業を発展させたのです。
 山梨の水晶が世に出たのは、
鎌倉時代に夢窓国師の甥が甲州の水晶を取り寄せ、京都で数珠を作ったのが始まりといわれています。
江戸時代になると甲府が加工工芸の中心として発展し、甲州一円から全国へと市場を拡大して行きました。その影には、良質の 水晶を求めて甲府を訪れ、御岳の神主たちに水晶の研磨技術を伝授していった京都「玉屋」の番頭「高木弥助」の功績があります。
明治時代にはいると、廃刀令ために職を求めて甲府へ移住してきた人たちによって、水晶と金属加工の技術が結びつき「金輪入り水晶指輪」「水晶のお守り玉」などが作られ、流行しました。
明治35年ころからは甲府の商店を中心に水晶加工品を全国に発送する通信販売もスタートしています。
明治の末には原石の枯渇が始まったものの、ブラジルからの輸入で乗り切り、さらに世界へと市場を広げる契機となりました。
第二次世界大戦が迫るころになると、活気に満ちていた宝飾産業にもかげりが見えてきました。原材料輸入のストップなどによっ て、宝飾産業はほぼ死滅の時を迎え、甲府の80パーセントを焼き尽くした昭和20年の空襲がそれを決定的なものにしました。
戦後焼け跡は相次いでバラックの工場が建ち並び、山梨の研磨宝飾産業はハイスピードで復興し、再び国内最大の宝飾品生産地として地位を築きました。
現在各業者は水晶製品から高級ジュエリーへの移行を進めると同時に、デザインの向上に力をいれています。とりわけ中央より名デザイナーを迎えたことの功績は大きいようです。
















 水晶を加工する職人芸


水晶から作られた装飾品






人工水晶について


水晶は、昔の人は山の中で氷が石に化したものだと考えられていた時代もあったらしいが、今の科学者は水晶のできかたをどのように説明しているのだろう。

  水晶の場合はできていく様子を実際見ることができる。それは人工水晶である。実際に作っている工場に入ってみると、鉄製のロケットのような容器が林立している。その内部には、なかほどに仕切りがあり、下部には原料となる石英のくずが入っている。上部には、薄い水晶の板(タネ板という)が針金でつるされている。
 容器の中に苛性ソーダを溶かした水を入れ、加熱し、圧力も上げていく。この熱水は、原料の石英を溶かし、ある程度以上に溶かすと、今度は過飽和になり、水溶液中の過剰な珪酸分を上部につるしたタネ板の上に遊離する。こうして薄板は次第に成長して、大きな水晶が出来上がるという仕掛けになっている。
天然の水晶の出来方もほぼ同じようなものだと考えられている。
 


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