西島手漉和紙の歴史



西島手漉和紙のあゆみ(歴史)

 戦国時代の末期

  西島における製紙の期限は、戦国時代の末期ちょうど武田信玄と上杉謙信が川中島で戦っていた頃、元亀2年(1571年)に望月清兵衛という人が伊豆立野村(今の修善寺町)に行き、その地方ですでに盛んに行われていた「修善寺紙」の技術を学んで帰り、西島の人に伝えたという。そのころ甲斐の国を治めていた武田信玄に紙を献上したところ、信玄は大変喜んで「西末改朱印」をあたえた。(「西朱」というはんこを押し、漉くことを認めたという。)
 
※しかし、この頃富沢町福祉や市川大門でも紙が漉かれていることから、副業として市川の紙が伝わったと考える方が、妥当と言う説もある。市川大門も富河も楮が原料だったが清兵衛が伝えたものは三椏が主原料だったので、その由来を修善寺紙にしたのかもしれない。?
 

 江戸時代

 天正10年(1582年)武田家が滅びると、まもなく山梨県は徳川家康のものになり、徳川幕府の保護を受け、ますます盛んになりました。この頃交通の中心は舟でした。富士川を下る舟があり、西島の紙もその舟に乗せられ、駿河(今の静岡県)から江戸(今の東京)と運ばれていった。すられていたのは三椏を原料とした、半紙だった。
 

 明治時代

 明治時代になると、紙の保護がなくなり誰でも紙が漉けるようになったので競争が激しくなった。西島でも品評会に出したり、いろんな紙漉きの技術を見学したり努力がされた。

 大正時代

 大正時代になると、紙の生産はピークになり、村の3分の1の家が紙を漉くようになり、「紙を漉かぬものは男にあらず」といわれるほどになった。 やがて戦争が始まると、軍隊が使う紙(軍納紙)を漉くように命じられていたこともあった。また、全国的に不況の時代でもあったり、統制もあったので衰退した。

 戦争が終わり

 戦争が終わり、一時的に物資が不足のもと障子紙を漉いていたが、需要も少なく苦しかったようだ。また、半紙を漉くようになっても機械を導入する大きな製紙工場に押され、半紙の売れ行きも鈍っていた。こんな時西島に活路を見いだしたのが、画仙紙であった。(中国では書画箋という。)

 昭和30年以降

 経済成長の発達著しい30年以降、趣味で書道をする人が増えたりや展覧会の数が増えたり、掛け軸などが増えたりで需要が急激に増えた。もともと使っていたものは中国製のもの(台湾経由で日本に輸入された)だったが、値段がものすごく高かったので、西島はこの画仙紙を漉くようになり戦後第一の苦難を乗り越えることができた。
 

 昭和45年頃

 第二の苦難は、45年頃である。この頃後継者に悩まされた。いわゆる跡継ぎがいなかったことである。ほかに働き口があったこの頃、どうしても労働のつらい和紙漉きにならなくてもと考え、若者がこの仕事に就かなかった。舟から紙を漉くにはかなりの労力が必要で、せいぜいできても60歳までが当時の常識だった。このことを解消しようとしてできたのが、現在の精巧した漉き方である。この漉き方によって一日600〜800枚が可能になり、ある程度までは誰でも同じように漉ける。これによって労働力不足の解消になり、一時的だが工場数も労働力も増えたそうだ。
 

 オイルショック

 第3の苦難は、オイルショック後の紙の値段であった。紙の値段も上がり労働力も確保されたが、西島の漉く技術が台湾へ持って行かれ、台湾でも漉かれるようになった。昭和55年頃から台湾紙に悩まされ深刻になった。西島は紙の値段は上げれず苦しかったようだが、品質で勝負したようだ。

昭和60年頃

 昭和60年頃になると落ち着き、消費者も分かるようになってきた。
 その後、第4の苦難として昭和の終わりまたは平成元年ごろから、中国の紙が輸入されてきたことだ。画仙紙のもとは中国である。伝統と値段に押されることになる。



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