◆どれが,棒道?


 江戸時代の地誌『甲斐国志』には,「棒道は上・中・下の3本あった」,とあります。
 それによると,3本とも長坂町内を通っています。「中の棒道」は長坂町の大八田を経て大井ヶ森を通り富士見町方面へ,「下の棒道」は,渋沢・中丸を経て小淵沢方面へ抜けているのですが,実はこの2本は,諏訪方面(長野県)への道路として古代から使われていました。
 『山梨県歴史の道調査報告書(昭和62年)』では,長坂町の小荒間を通る「上の棒道」が,信玄の時代に作られた本来の棒道だとしています。その理由は,江戸時代にかかれた絵図で「ぼう道」と記入しているのは,小荒間を通る道だけだからです。
 
 ※『甲斐国誌』:江戸時代の甲州の地誌。幕府の命で松平定能が編纂(へんさん)。71巻。1814年成立。武田氏滅亡後,甲州の故事が散逸していたことが,地誌編纂のひとつのきっかけとなった。


 では,小荒間を通るどのあたりの道が,棒道なのでしょうか?

 甲府を出発して佐久往還(今の国道141号線)に入り,小田川(今の韮崎市)や若神子(今の須玉町)から八ヶ岳南麓まで進む道は,古代からすでにありました。南麓までの道を進んだあとの「大泉村大芦から長坂町小荒間を経て,小淵沢町を抜け,八ヶ岳の西の麓から長野県(富士見町)に入る道」,これが,山梨県側の「上の棒道」です。

 (長野県側の「上の棒道」は,甲六川を渡り富士見町・原村を経て,茅野市蓼科あたりを通り,白樺湖近くの大門峠を越えて,信玄の目的地,北信濃つまり長野盆地に通じます。)


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