棒道が,何年に,どのようにしてつくられたのかをくわしく記録した史料は,残念ながらありません。
しかし,長野県に棒道の開設を伝えるといわれている文書が残っています。 それによると,1552(天文21)年,信玄は,「甲府から諏訪郡への道を作ることを命じ」ており,「川に橋をかけるために,どの山からでも木を切ってもよい」としています。
(武田晴信)
朱印
(訪)
従甲府諏方郡へ之路次之事、致勧進可作之、同雖何方之山,剪木可懸橋者也、仍如件、
天文廿一年
十月六日
信玄が諏訪一帯を制圧して信濃攻略を開始したのは,1542(天文11)年のことです。北信濃の善光寺平を舞台とする上杉謙信との「川中島の合戦」は,この文書が出された翌年,1553(天文22)年から始まっています。
さて,甲州から諏訪盆地に出るには,長坂町の大井ヶ森を通るこれまでの道で十分だったのですが,善光寺平のある北信濃に出るとなると,これまでの道では遠回りで,時間がかかりすぎます。
そこで,もっと時間のかからない,最短距離の直線的な道はないものかと開削したといわれるのが,大井ヶ森よりももっと標高の高い小荒間を通る道だったというわけです。
つまり,信玄が諏訪盆地の平定を終え,次に北信濃を平定するために作ったのが棒道だ,という考えが正しければ,「棒道」ができたのはこの文書が出されたころ,といえるかもしれません。