おおいしつむぎ
大石紬
大石紬の歴史 河口湖にまだ人工の放水路がなかったころは、豪雨(ごうう)のたびに湖岸の田畑は水につかってしまいました。大石地区の人々は、この水害をさけ、御坂山地の山ろくに耕地を求めて焼畑農業を行って生活をしていました。 この山畑にクワを植え、養蚕を営むものが出てくると、いつの間にかこの山畑の大半はクワ畑に変わり、そのクワによる養蚕が農業収入の主力となりました。人々は春蚕(はるご)、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)と年に三回の飼育でまゆを売りました。その副産物として出たくずまゆや玉まゆは、地元の農家で紬の原料とされたのです。こうして大石紬は生まれました。 江戸時代末には、租税(そぜい:税金)としても納められました。また、毎年富士山にお参りする富士講(ふじこう)などの客人や、行商人などの手によって広く売り出されました。明治、大正時代にはさまざまな改良が重ねられ、現在の大石紬になりました。 明治の末から昭和初期にかけてが、大石紬がもっともさかんに織られた時代です。250戸余りの農家によって、年間3400反(たん)余りが生産されていました。 さかんに織られていた大石紬も、昭和に入り経済不況(けいざいふきょう)や戦争の影響を受けました。山畑には植林がされ、平地の畑にはクワを抜いて食糧となる作物が植えられました。大石紬の生産も減少していったのです。 その後は、観光開発や社会情勢(しゃかいじょうせい)の変化にともない、後継者(こうけいしゃ)の不足、原材料の不足、需要(じゅよう)の減少などから、大石紬が消えてしまいそうな状況におちいりました。 しかし、近年になって地域をもりあげる運動がさかんになるにつれ、この伝統的な工芸織物の再起をはかろうと、大石紬伝承事業部が発足しました。この事業は、『大石紬伝統工芸館』の建設を中心に、伝統工芸の継承(けいしょう)、後継者の育成、他の地域との交流などを進めてきました。 |
![]() 大石紬の糸と反物(たんもの) ![]() |
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大石紬伝統工芸館の全景![]() |
![]() 大石紬や大石紬伝統工芸館について 調べてみましょう。 ![]() |